うるさい・・・

もうすぐ夏が終わるというのに、蝉の鳴き声が今日は妙にうるさく耳に着く。
加えて、都心のビル群の照り返しは只者じゃない。コンクリートで倍の熱を帯びた
陽射しがバテた体を容赦なく攻撃する。汗が顎を伝った。

目的地の公園に着くと木陰を探す。幸いにもそれは直ぐに見つかった。木の根本に
置かれた3人掛けのベンチには、緑濃く繁った葉が涼しげな影を落としている。
類は誘われるように腰をおろし深く息をついた。

脱力。

そのままベンチに寝そべる。木の葉の間からチラチラと覗く太陽が眩しい。
堪らず両手を顔の上に重ねた。視界を遮るといくらか落ち着いた気分になる。
先程まで日向の熱で気付かなかったが、辺りを弱々しく通り抜ける風は、1週間前
より幾分、冷気を含んでいた。噴出していた汗を心地よくさらってゆく初秋の風。
このうるさい蝉の鳴き声さえなければ眠くなりそうなのだが。
それは、ひどく耳障りに頭を刺激した。

何を伝えたくて鳴くのだろう。今日に限って。何故だか胸が騒ぐ。




「花沢類?」

久しぶりに聞く女の声で類は我に返った。顔から手を下ろすと彼女がにっこりと笑って
いる。

「ごめん、待った?」
「大丈夫。今来たところだから」

2ヶ月前に会った時もこのセリフだった。彼女の遅刻は毎度のことだ。

「元気そうだね、牧野」
「うん。やっと仕事にも慣れてきたしね。楽しいよ」

つくしは類の横に座ると手でパタパタと顔を扇ぐ。


司の母親から突きつけられた一年の期限は司とつくしの二人を容赦なく引き離した。
半年前の3月初旬、鉄の女は司を拉致するようにNYへ連れて行ってしまった。
二人には約束する間も別れを惜しむ間も与えられなかった。
つくしに残されたのは、司の姉を介して伝えられた一言だけ。

残ったつくしは無事英徳学園を卒業し就職。学生の類達と社会人の彼女とでは、
必然的に時間のずれが生じ、会う機会はグッと減った。少なくとも以前のように
道端でばったり出会うような偶然はない。だから時々こうして「忙しい」と渋る
つくしを呼び出すのだ。



「暑いね。もう8月も明日で終わりなのに」
「夏なんか暑いだけじゃん。俺は早く冬になって欲しい」
「ふふ・・温泉が好きだったよね。私は夏も好きだけど・・今年はどこにも行か
 なかったなぁ」
「海とか行かなかったの?ほら・・あんたの友達のなんとかって子とか」
「優紀?いい加減、名前覚えてあげてよ」

一緒にカナダにも行ったでしょ、と呆れたように笑う。

「優紀は短大の課題とかバイトとか忙しそうだったし、私もこうみえて結構忙しい
 んだからね・・・なんて、本当は家でゆっくり寝たかっただけなんだけどさ。
 あ、これじゃ花沢類みたい」

ペラペラと茶化すつくしに類は苦笑いを返した。

相変わらず嘘が下手だ。

『直ぐ帰るから』
司の姉から伝えられた、その言葉を信じて待ってるくせに。
いつ戻るかも分からない音信不通の恋人。家を空けるのも怖いくらい待っているくせに。


「もう秋になっちゃうんだねぇ」

つくしの想いとは逆に季節は静かに巡っていた。
時が経てば経つほど、彼女の不安は募っていくに違いない。それでもつくしは決して
「寂しい」とは言わなかった。ただ時折、油断したように視線を落とし、物憂げな
笑顔を零すのだ。

「司は帰ってくるよ、あいつ、約束は律儀に守る方だからさ」
「バ・・・っ!!誰もあんな男、待ってなんかない!」

顔を赤くして怒る。

「すぐ帰るって言っといて!知らないよ、もう道明寺なんか」
「なに弱気になってんの?まだ半年じゃん」
「ちょっと、きちんと人の話聞いてる?待ってないってば」
「ふーん」

腕を振り上げて怒りを露にするつくしに、類はなんとなく苛立ちを感じた。

全く、どこまでも素直じゃない。
あんたの作り笑いは嫌いだ。素のままの牧野でいて欲しい。

「じゃ、やめる?」
「は?」
「俺にしとく?」



類の突然の申し出につくしは目を丸くした。

「・・・どうしたの?いきなり・・・変だよ?」
「変じゃないよ。牧野がとぼけてるだけでしょ。俺、あんたが好きだって言ったよね?
 今でも俺は牧野を支える自信があるよ」

類は力を込めて彼女の肩を押さえる。ここは白昼の公園。暑さから逃げるように足早に
去っていく通行人達が、チラリと冷やかしの視線を送るが気にしない。
体を硬く強張らせるつくしの唇に近づく。

「ちょっ・・・ちょっとっ!!!」

触れる直前で我に返った彼女は、サッと身を引き類を押しのけた。
嫌だ、と頭を振り、申し訳なさそうに俯くつくし。

ホラね・・・

「司じゃなくちゃダメなんだろ?」

類が言うと、彼女は恐る恐る視線を上げた。
きっと頭の中はパニック状態なんだろう。顔を赤くしたり青くしたりあたふたと忙しい。

「プッ・・あんたって分かりやす・・」
「あっ?・・あっ!試したね?!ヒドイ!」

本気にしたじゃない!と頭をポカポカと叩く。
まだ収まりそうにない笑いを押し殺して、類は彼女の顔を覗き込んだ。

「いいじゃん。寂しい時は寂しい。辛いときはツライって顔してもさ」

微かにつくしの大きな瞳が揺れた。手のひらの下で彼女の細い肩が震える。
でも牧野は泣かない。ただ司を想う。


「待ってるのに。直ぐ戻るって言ったくせに。頭にくる・・・」




多分、夜が来るたび司の電話を待ち、朝が来るたび扉の向こうに司の姿を探すのだろう。
それでも見つからない司を想って、牧野は何度、心を濡らしただろうか。

「司は絶対帰ってくる、俺が保証してやるから」

俺の想いは実らなくててもいい。少しでも長く彼女を支えたかった。






遅いランチをとり、カフェで何を話すでもなく時間を過ごす。タクシーでつくしの
アパートの近くまで送って来たのは、もう日も落ちかけた夕刻だった。

タクシーから降りかけたつくしの足が止まる。不信に思って彼女の視線を追った。
視線の先にある一つの影は、彼女を捕らえて離さない。

夢を見るように
奇跡を見るように

牧野の瞳は光が満ちて、熱を帯びる
司の傍で彼女は輝く


───少しでも長く、でも終わりは突然やってくるんだ・・・


「行きな、待ってたんだろ?」
「うん・・・うん!ありがとう、花沢類!」

どんな瞬間より華やいだ笑顔を弾けさせ、司の元へと走り出す。
遠ざかる足音。その軽やかな音が消える前に、類は待たせていたタクシーに乗った。

何気なくルームミラーに目をやる。そこに映る二つの影が重なった。しかしその直後、
片方が素っ飛んで俺は絶句する。牧野のことだ。『遅い!』とか言って司をぶん殴った
のかも。笑えるぐらい短気な女。

静かに車は発進する。
再び寄り添う影が小さく小さく消えてゆく。



口が悪くてかなり鈍い、始末に負えないほど意地っぱりな女。
そのくせ、隠しきれない弱さを気付かせる。あいつはズルイ。

だけど俺にはない物を彼女は持っていた。情熱を秘めた瞳。
憧れた、好きだった。



惹かれずにはいられなかったんだ───






司帰国で一悶着あった後、つくしのNY行きが決まったのは、秋も深まった紅葉の
季節だった。

二人は二人しか進めない道を歩き始める。あいつらが何処に辿り着くのか、それは
誰にも分からない。だが、今の牧野からは微塵の躊躇も感じなかった。

「バイバイ、牧野」




いつかNYでしたように、彼女の額へと最後のキスをする。
二人のゴタゴタに散々付き合わされたんだから、これぐらい勘弁してもらおう。


「バイバイ、花沢類」

別れの言葉。
だけど、永遠のサヨナラではない。
いつか再び司と牧野に出会う時は、曇りのない心で『お帰り』と伝えたい。
その為の区切りの儀式。


搭乗の最終案内が響いた。
手を大きく振る牧野の笑顔が眩しい。

ふと、胸が騒いだあの夏の終わりを思い出す。
蝉は今日という日を予感していたのだろうか?

窓ガラスに覗く太陽の光は、あの日と同じものとは到底思えない緩やかに流れる秋を
帯びていた。窓を青く彩る空を見上げ、微笑む類。


ま、いいさ、そんなことは


二人が発った搭乗口に背を向ける。



俺も歩き始めよう。



                                      




                                  おわり    



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